私の母は厳しい環境の中で育ち、大変な努力をして勉強し、教師、専業主婦、そして保険外交員となり私達男兄弟5人を育ててくれた。
子供の頃、モーパッサン、山本有三の「女の一生」を読み、大人になれば我が母の「女の一生」を書こうと思った。
ところが、生来の怠け癖のためこの歳になっても書けていない。しかし、子孫のために書き残したいと思うので、筆ならしのため掲示板に投稿する。
母方の祖父は阿波の下級士族で、十数歳で医者の勉強をするため大阪に出た。しかし、体格が良く色白でそこそこの男前だったため女性にもてた。
酒と女に溺れ、勉強が進まない状況で17歳の時明治維新を迎え、下級士族の通例で巡査になった。双子の兄弟と一緒に兵庫県の豊岡で巡査をし、結婚した。
その後記録は途絶え、50代の後半に琴平に単身赴任で来て仕事をしている。祖母の言い伝えでは、小川平吉という人の下で、金比羅さんの神仏分離に
伴う仕事をしていたようだ。小川平吉は元総理大臣宮沢喜一の母方の祖父で、東京帝大卒業後弁護士、衆議院議員、鉄道大臣、衆議院議長をやった偉い人だ。
そんな人が、何故祖父と関係が出来たのか分からなかった。いろいろ調べた結果、国会図書館のデジタルコレクションの検索で、金比羅さんの神仏分離で分かれた
お寺(松尾寺)側の訴訟代理人をしていたことが分かった。祖父は、当時50代後半で30代後半の小川平吉の下で仕事をしていたようだ。明治維新時には偉い人は
20代から30代で活躍しているから不思議ではない。
単身赴任なので、お手伝いさんとして30半ばの祖母が同居し、明治40年12月二人の間に母が生まれた。
大阪にいた奥さんには子供がいなかったので、跡継ぎを作るため子供を作ったようだ。母は出生後認知され祖父の板川姓となった。祖父57歳、祖母36歳である。
ところが、5年後祖父は長崎で急死する。当時、大阪で所帯を持ち、琴平、長崎等で仕事をするような人はあまりいなかったと思う。小川平吉の下で飛び歩いていた
のだろうか。
祖母は、琴平町の隣村の農家出身で結婚歴があり、母より16歳年上の娘がいた。当時、姉は既に奉公に行っていたので、41歳の母親と5歳の娘の生活が始まった。
琴平は門前町で賑わっていたが、この時代にシングルマザーで子供を育てるのは並大抵のことではなかった。祖母は針仕事をしたり、再婚、離婚を経験したようだ。
祖母は、尊敬する亡き夫の気持ちを思い、貧しいながら懸命に母を育てた。
14歳で琴平尋常高等小学校2年の時、姉の夫が当時日本領だった中国山東省の済南で山東鉄道の技師をしていたので移住し、済南居留民団会立小学校に編入し、翌年卒業する。
山東鉄道電話交換所の交換手となった。日本は、この年の12月に山東省を返還したため、翌年16歳の時日本に帰国した。済南居留民団会立小学校の受け持ちの先生が
後に琴平まで来て母に求婚する。また、電話交換所に遊びに来ていた鉄道社員が第二の求婚者となる。母は、自分の母親が3回も結婚しているのを見て、自活の出来る
職業を身に付けなければならないと思っていたので結婚申し出は断る。
帰国後、一旦琴平に落ち着いた。町で大きな事業をしている家のおばあさんが母を気に入り、自分の家に来なさいと言ってくれたが、親戚の人の紹介で、大阪の眼科医院の
受付となる。暫くすると、また富商のおばあさんが「帰ってきて師範学校の入学試験を受けなさい。」と言ってくれたので、琴平に帰る。
そして、師範学校の先生の奥さんで小学校の先生をしている家に住み込み、昼は家事をやり、夜に先生から勉強を教えて貰った。
翌年、師範学校の入学試験を受ける。試験は合格したが、実家が遊郭に近いと言う理由で不合格となる。
その年(17歳)の4月に私立善通寺高等女学校3年の編入試験を受け入学する。
この学校の経営者兼校長は子供がいなかったこともあり、母をことのほか可愛がってくれた。2年後卒業(19歳)時に、香川女子師範は不合格になったので、
徳島女子師範を受験するつもりでいた。しかしこの校長は、坂出の女子師範で、丸亀女学校や、高松女学校の出身者と勝負させたいと考え、香川女子師範二部の受験を強く
勧めたので受験する。女子師範で二年前入学を反対した教頭が転勤したため合格する。校長は、合格祝いとして公演の謝礼で貰ったのし袋入りの5円をくれた。この当時、
10円あれば一人一ヶ月生活できる金額だった。
翌年(20歳)、女子師範学校を卒業し、琴平小学校の教師となる。
(添付の写真3は当時の済南の田舎の風景、母が高齢で認知症になり、乱暴に取り扱ったため一部破損している。)
この続きはまたの機会にしたい。
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