みんなの広場「こころのパレット」

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〈今 日〉 引用
池見隆雄 2022/3/16(水)18:19:32 No.20220316181341 削除
 今日、われ、生きてあり。

 今日、われ、悲しみてあり。

 今日、われ、喜びてあり。

 今日、われ、永遠に、生きてあり。


 あるテーマの下に、
 多少まとまった文を物そうと思い立って以来、
 なかなか、「心のパレット」へ、書き込めません。 

〈試み〉への追記 引用
池見隆雄 2022/1/10(月)13:18:16 No.20220110130953 削除
 たとえ十遍読み了えても、
 『エチカ』を自分のものに出来るとは到底思えないし、
 また、それで構わない。
 では、何のために、それだけの時間とエネルギーを注入するのか?

 強いて言えば、読んでいて楽しいから。
 スピノザの呼吸に、自分の呼吸を合わせてみようとすることが
 楽しいから。

 庭に咲いている花のどの一輪も呼吸している。
 そのことは、耳でなく目で見て取れなくはない。

 私は、『エチカ』へ向かうとき、音読することにしている。
 呼吸が合ってくると、我ながら力強い声が現出される。
返信(3)を読む 最新返信日:2022/3/2(水)20:34:44

こんにちは。 引用
hikaru 2022/2/4(金)12:02:54 No.20220204114410 削除
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No.1
  ご無沙汰しています。

12月からヨガ教室に通っています。
週に1時間。みっちり動きます。
体の隅々まで伸ばして、スッキリ。
最後は、気持ちも凪いで、穏やかです。

池見さんへのメッセージ
がんばって生きとるよ(^_^)v

写真は、アルストロメリア。好きな花です。
返信(1)を読む 最新返信日:2022/2/5(土)15:03:29

〈付き合いの形 A〉 引用
池見隆雄 2022/1/29(土)14:56:13 No.20220129141553 削除
 昨年初めから私は5年日記を付け始めたが、
 その1月21日の件(くだり)に、耳鼻科を受診して「突発性難聴と判明」と記しているが、
 それ以降昨年中は、難聴に明け暮れたといっても過言ではないかもしれない。
 難聴の苦労話を文に作っても楽しくなく、
 目を止めて下さる方にも鬱陶しいばかりと想えるので、
 ここで方向を転換する。――今、最も書きたいことの一つを取り上げる。

 昨年の10月下旬か翌月の上旬、夜半、ふと目を上げた先、建物の狭間の空に、
 満月か、それに近似の月が小さく望まれた。
 空気が澄んでいたのか、その放つ光(太陽の反射光)は極めて明るく、
 皓々(こうこう)という昔ながらの形容詞が、さらにまた、
 「姉妹なる月」と思い浮かべられた。

 その月が、己の姉妹に見立てられたというのではない、
 聖フランシスコの有名な詩の一節、「太陽なる兄弟、姉妹なる月」に由来する。
 月自体はその円周がむしろ小さく望まれたのに、
 身近な感じとして迫ってきたのは事実だが。

 フランシスコは特定の教団に属さず、自然児のような修道生活を営んだと思うが
 (彼の生涯を描いた、二種の映画を観たに過ぎない)、
 前掲の一節を含む彼の詩は、そういう生活を象徴するもの、と私は長く思い込んで来た。

 しかし、その夜の月に対面して、分別に偏した捉え方に痛撃を受けたというべきか。
 「兄弟なる太陽、姉妹なる月」と文字通り、彼は実感していたに違いないと。
 むろん、空も雲も樹々や花々、動物たちへ対しても分け隔てなかったろう。

 禅の方の言葉に、「万物同根」というのがあるが、
 それへ通ずる心境であろうか――これもまた分別臭い言い草だ。

 11月下旬の3泊グループのあるセッション中、私はその痛撃の体験を吐露してみた。
 といって、唐突なタイミングの発言へ、その場で特に反応があったわけでもない。
 その後のセッション終了後、ある70歳近い参加者が私へ、
 「人間として生まれてきた以上、それぐらいの心境まで行きたいもんですな」
 とさりげなく伝えてくれた。
 私も全く同感だった。

 11月の3泊グループを実施するかどうか、私は前日まで迷い、悩み抜いた。
 もし神経疲労から他の人たちの話を聴くことができなくなり、
 ファシリテーターとしての役目を果たせなくなったとしたら、
 グループにおける無理が祟って、不可逆な難聴に陥ったとしたら、等々。

 にも拘わらず、「中止」という選択はあり得なかった。
 私は懸命に、「中止」の腕を振り下ろそうとするが、
 私の礎たる「わたし」が、遙かに優る力でそれを阻止するのだ。

 グループは、ともかくも、大過なく幕を閉じ、私の聴力も保たれたが、
 私は安堵感とも無縁で、夢から覚めたように呆然としていた。

 今日、私が、そのグループを振り返って最も鮮明なのは、
 フランシスコの詩について述べ、
 その月が、
 あたかも私を導くかのように、心に掛かり続けているということだ。

                               (終わり)

〈付き合いの形 @〉 引用
池見隆雄 2022/1/25(火)15:51:58 No.20220125150907 削除
 〈奇蹟〉を「心のパレット」に投稿したその日の内の間もなく、
 左耳に耳鳴りが高まった。
 この程度の文章を記しただけでも、
 ちょうど一年前に突発性難聴を発症した左耳に神経の負荷は少なくなく、
 それがこういう形で現れたのだろう。
 ――いや、これはもう推測の域ではなく、私にとって心身両面における確信だ。

 しかし、この耳鳴りは、音量的に高くはあるが、
 悪質(聴力低下の前兆)ではないと思われた。
 平衡を失しかけた神経が、自動制御的にそれを正そうとしている――いわばその槌音。

 悪質の場合だと、耳鳴りに加えて外来の音響にヒビが入る、
 ――ある周波数の音程が遮断され、
 全体としての丸やかさが保たれず、その刺々しさに閉口する。
 例えば、第二バイオリンやビオラといった
 中音域を担当する楽器群を欠いた合奏をイメージして貰うとよい。

 さて、投稿後は耳鳴りと、損なわれない世間の響きとが共存していた。
 小一時間ほど座椅子にもたれ、目を閉じ腕を拱(こまぬ)きつつ過ごした後、
 ふと思い立って、
 というか、そのときの自分にも無理の行かない感覚が内心に得られて、
 長谷川宏さんの『日本精神史(上)』を取り上げた。
 読書中の4,5冊のうちの一つ。

 これは名著といっても良い出来だと思う。
 我が国の精神の歴史とその背景を成す事物の歴史とが、
 適確に簡潔に、二重写しのように醸し出され、
 綿密な現地踏査、資料の精読を踏まえた、
 哲学者の隙のない思考と、文学の想像力が相伴った文は格調高い。
 下巻では、本居宣長に丸々一章が割かれているのも、私にとっては嬉しい。

 この国学者とは10年ばかりも付き合ってきた。
 いや懸命に取り付いてきた。
 長谷川さんの、この人の国学者としての立場への見解を、是非、拝読したいものだ。

 結局、私にとって、宣長の著作、取り分け『古事記傳』は、
 それが一貫してどういう思想を読み手に伝えんとしているのかより、
 宣長の一文一文への意気込みと、対峙しているかのような緊張した充実感が何よりの収穫だった。

 我が国の述作の内で、私自身について最も大切なものを挙げるよう求められたとすれば、
 ためらわず、『古事記傳』を挙げるだろう。

 さて、長谷川さんの本を読んでいると、耳鳴りがその度合いを増してくる、
 悪質へ移行する気配も察しられなくはなく、ページを閉じた。
                               (多分、続く)

〈奇 蹟〉 引用
池見隆雄 2022/1/12(水)14:17:41 No.20220112131509 削除
 先日の書き込み、〈贈る心〉を書いたそのとき、
 キャサリン・マンスフィールドの短編(代表作といって良いのか)、
 『園遊会』をまだ読み了えてはいなかった。
 50年ぶりの再読、
 記憶力は悪い方ではないが、さすがに既読感とは縁がなく、
 未知の作に向かうように手探りで読み進めて行った。


 ヒロインは、14,15歳くらいだろうか?
 彼女の母親や姉たちに比べれば、
 階級意識などの先入見、牢固な価値観に取り籠められている風でなく、
 取り分け未知の他者との接触に、その都度、「人」についての発見が伴うのだった。
 その一方、馴染み深い自然の風物へ対しても。
 
 そういう彼女の存在感は、
 およそ今から百年前にものされた作中人物というのに、
 現代の読み手との間にも、時代また土地柄といった隔たりをまるで感じさせまい。
 私個人にしてみれば、
 エンカウンター・グループの参加者の中へ、折々見出せそうな。
 そして、そういう参加者へは、セッション、食事時間その他――公私の別なく、
 つい親しく声を掛けたくなる。

 ヒロインは大層、裕福な家庭の三女(?)。
 彼女は多少とも扱い難い、と母親にうとまれているのが窺える――
 面倒というか雑多な役回りは、大抵、彼女が負う羽目に。

 天候に恵まれたある日、
 その家の広大な敷地を舞台に、園遊会が催されるのだが、
 ヒロインはテント張り職人への対応であるとか、
 料理人のサンドイッチ作りの手伝いであるとか・・・・。

 園遊会の準備が大方調ったところへ、町で事件が起こる、
 この屋敷から道を下って直ぐに、何件か貧相な家が固まっているが、
 その内の、ある家の若主人が落馬事故で急死。
 その噂は、園遊会のために夥しい花を運んできた花屋から料理番、小間使い、
 そしてヒロインへと伝わる。

 彼女だけはそんな不幸が起こった以上は、
 園遊会を見送って、断然、哀悼の念を表すべきと思い立つが、
 母はじめ家族から一笑に付されてしまう。

 それにしても、その日の園遊会は大成功裡に終了し、
 ヒロインも、その時点ではそのことばかり――満足感に浸りきっていた。

 ところが、ふと父親が、例の事件のことを持ち出す。
 水を差された妻は、厳しくとがめ立てしつつも、
 残った食物の山の整理かたがた、不幸な家庭へそれらを施そうとの思い付きを自賛し、
 気を取り直す。

 大きな籠に溢れんばかり。
 使者には、又しても、ヒロインが指名される。
 派手な衣装のまま、その界隈へ入って行くのが、彼女にはためらわれた、
 住民たちの視線が非難めいて感じられる。

 ようやっと当の家に辿りつくと、
 思いがけず、その家の親戚筋の女性に講じ入れられ、
 あまつさえ、一室に寝かされている死者に対面・・・死者からの無言の語り掛け。
 その透徹は、彼女にとって奇蹟という他ない。

 戸口を出たところへ、ヒロインを心配した兄が迎えに来てくれているのに出くわす。
 賢明で、日頃、彼女をさりげなく顧慮してくれている兄。
 彼は、涙をこらえている様子と、その口を洩れた一言半句から、
 妹が全身で体験した“人生の奇蹟”を掬(すく)い取ってくれた。


 以上は、ほぼ、“ネタばれ”と非難されても致し方ないが、
 至らなくとも私自身の文で反芻しないことには、心の高ぶりが治められなかった。

 『園遊会』の他の全ての作品へも目を通したくなった私は、
 直ぐに、最も安価な中古を、もう一冊、取り寄せることにした。
 昭和44年発刊の岩波文庫の活字は細かくて、どうせ拡大コピーせざるを得ないのだから。

 序でに記せば、
 この作品の再読を含めて最近、私の頭の中の一角を、
 「無条件の幸せ、なんでも幸せ」という文言が、
 あたかもフラッシュバックめいて占拠している。

〈試 み〉 引用
池見隆雄 2022/1/7(金)15:15:08 No.20220107150919 削除
 スピノザの主著、『エチカ』、三度目を読んでいる。
 相変わらず理解できる個所は僅かだが、
 それでも初回とは、手応えがすい分異なる。

 知的に理解できなくても、心の内に何かが動く、
 微かながら「よいこと」、「悪いこと」などの観念が形成される 
 ――喜ばしいことだ。

 ある方が、
 「書物を自分のものにしようと思うなら、十遍読みなさい」
 と言われたのを思い出し、それを試みているわけだが。

〈贈る心〉 引用
池見隆雄 2021/12/27(月)14:15:55 No.20211227134734 削除
 今月30日に41歳を迎える娘へのプレゼントの一つに、
 キャサリン・マンスフィールドの短編集を購入した
 ――新本は品切れで入手できないので、状態の良好な中古で。

 その文庫本が、中で一番最後に、私の手元へ届けられた。
 他にはマーガレット・マーヒー、ジェーン・オースティン、
 サマセット・モーム、そして柳美里。

 今度、マーヒー、マンスフィールドは、くしくも共に、
 ニュージーランドの作家だと初めて認識。
 マーヒーは、小学生から青年向きの読み物を、少なからず残しているが、
 小学生の娘は、『魔法使いのチョコレートケーキ』が大のお気に入りだった。

 オースティンの『高慢と偏見』・『エマ』は高校生のとき。
 オースティンのは、『マンスフィールド・パーク』という題名の700ページを優に超える大作だが、
 およそ一世紀後輩のキャサリン(マンスフィールド)とは何の関係もない。

 キャサリンとモームとは、私自身が20代に愛読した。
 そして、今年の話題作の柳美里。

 手元に届いた6冊(マーヒー作が2冊)を眺め渡していると、
 一度に手渡すには贅沢――豊か過ぎる――勿体ない、
 という気持ちに捉われかける。

 50年ぶりに、キャサリンの『園遊会』を読み直してみた。
 50年どころか100年前に書かれた作だが、
 何と作中の人物たちが活き活きと動き、濃やかな思いを凝らしていることだろう。
 時代を超えて通底している知性と感性という生命の姿が、
 文字の向こうから、この人の文体同様透けて見て取れる。

 本当に、今度のプレゼントは豊か過ぎた。
 この一冊でさえ、こうなのだから。
 とはいえ、実際娘が受け取ってくれるのは、
 こちらの思いと感受との百分の一くらいかもしれない。

 豊か過ぎるくらいで丁度良い。
 一冊でも読んでくれれば、
 贈る者は、既にもう、充分豊かに潤されているのだ。

〈若きファシリテーター仲間へ〉 引用
池見隆雄 2021/12/14(火)22:40:03 No.20211214223246 削除
Aさん

 早速の返信、ありがとう。変わりなくて何より。

 今度のグループでは、これまで2回とはまた異なる頑張りぶりだったと思う
 ――それは目に見えて、というより、内面の自己コントロールとでも言ったら良いだろうか?
 「自画自賛」と最後に心中を明かしてくれたけれど、
 頑張りは、その言葉に価するだろうと思う。
 おかげで、私は、不十分な体調ながらに、したい放題させて貰ったよ。

 さて、Aさんは、今回に限らず、グループの流れが「早い」、とその最中に洩らすことがままあったけれど、
 それについて、参考までに一言。

 「早い」と捉えられるのは、Aさんの感じ方が遅いのではなく、
 個人セラピーのときの対応(聴き方)が、グループへ持ち込まれているのが一因ではなかろうか?
 言わば“単線”的な受け止め。

 私の考え、体験においては、ファシリテーターは、“複線”的な対応に習熟する必要があるように思う。
 すると何人かのメンバーの発言が重なっても、
 それを「早い」と当惑せず、また神経的な疲労も減ずるだろう。

 “複線”的とは、別言すれば、身体全体で聴くということ。
 フォーカシングのフェルト・センスを思い浮かべて貰っても良い。
 そこには同時に、幾つもの話題・こちらの気掛かりをタグ付けして保存しておくことができ、
 機に応じて、どれからでも、またどれも漏らさずその発言者に関わっていける。

 勿論、これだけの記述では分かり難かろうが、Aさんの今後の精進に、多少とも参考になればと。
 こちらも負けずに、精進あるのみ。

 ではまた、次に一緒する機会を楽しみに。

〈今を生きる〉 引用
池見隆雄 2021/12/6(月)13:53:46 No.20211206133301 削除
 うちの二女は、福岡市動物園の獣医職についている。
 先日、飼育員さんとタッグを組んで、キリンの首からの採血に成功した。

 囲いの向こうから地上の餌箱へキリンが首を伸ばしたところで、
 横合いから二女が、すばやく注射針をその血管に挿入する。
 
 可愛らしげな表情のキリンだが、
 その長く逞しい首に薙ぎ払われると、人間などひとたまりもない。
 危険な動物といってよいのだ。

 他の飼育員さんによって動画撮影され、
 インスタグラムに投稿された採血の模様を、
 私も、家内に見せて貰った。

 そのプロセスにいちいち立ち会ったわけではないから、
 彼らの労苦を私自身のものとして感得できるわけではないが、
 動物との間に信頼関係を築くべく、段階的な接触と躾とが、
 丹念に、あるいは根気強く積み重ねられたに違いあるまい。

 どちらかと言えば活発な長女と三女とに挟まれて、
 二女は、辛抱を選択せざるを得ない場面が多かった。
 三児の親として余程でない限り、
 私たち夫婦は、それを静観している他ない。

 その他、彼女の半生の紆余曲折とそれにまつわる私たちの憂慮とが、
 動画に対しつつ髣髴され、彼女へ、
  「初めて〇〇(二女の名前)の仕事ぶりを見た。
   しっかり獣医としての役目を果たしている」
 とのみラインで伝える。
 返信は、「見てくれたん」の一言。

 今を生きている彼女の喜びと誇りとが、
 さり気ない風となって私の胸底を吹きすぎた。

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