みんなの広場「こころのパレット」
全 1442 件 [
1
..
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
..
145
|
一覧
]
次
→
ページ
16
(151〜160)
ホームページ
〈動 く〉
引用
池見隆雄
2021/9/6(月)14:10:16 No.
20210906140155
削除
心が動かなくては、どんなささやかな文も綴れない。
心が動くとは、いったいどういう事態か?
私は、今のところ、
「自然は、世界の秩序との関係において、私を生かしている」
という事実を、
一瞬間に垣間見る ということではなかろうかと思う。
昨晩は、断続的に、雷を伴う激しい雨が襲来した。
一夜明けて、今日は薄曇り。
ときおり、湿気含みとはいえ、つい先頃に比べれば涼やかといってよい風が、
北向きの窓から吹き入って来る。
肌にそれを受ける。
これば偶然ではない――心が動く。
サッちゃん
引用
hikaru
2021/8/31(火)11:07:44 No.
20210831110507
削除
No.1
池見さんの文章を読みながら、いっしょに歌ってしまいますね、
♪かわいいね サッちゃん♪
<
返信(3)を読む
>
最新返信日:2021/9/3(金)14:54:00
>
返信を閉じる
<
Re: サッちゃん
(返信1)
引用
池見隆雄
2021/9/1(水)13:23:55 No.selfcontrol-20210831110507.1
削除
(hikaruさんのお陰で、サスケについてもう少し書き足す機会を得られて幸い。)
スマホで撮影したサスケをここにアップできたらと思うけれど、
まだその手順を会得していない。
また、自分の歌に聴き入っているサスケの動画をと試みるが、
レンズを向けられると、彼女はほとんど反射的に本体に跳び乗ってくるので 不可。
出先から家内へ電話かたがた、「サスケ」と呼び掛けると、
彼女の鳴き声とともに、スマホをつつく響きが伝わってくる。
接するのは私たち夫婦のみだから、彼女の生活のリズムも人並みに近づき、
例えば、最近では、籠に寝に入るのも、日暮れとともにどころか、
午後9時近い日が多い。
それも自ら入りはしないので、
眠そうなところを素早く掌に捉えたり、手洗いの暗がりに連れ込んだ上でそうしたりと。
籠に入ってからも、10分やそこらは餌をついばんでいる――
食事に費やす暇も惜しんで、私たちに構って貰おうとするからだ。
ようやく充ち足りると上の止まり木へ。
そこで家内の寝室へ移して、古カーテンの覆いを掛ける
(冬場ならば、内部に取り付けた40Wの小鳥用のヒーターを点灯させた上で)。
その時間に私が帰宅していなければ、家内から、
「サスケ、今、おとなしく寝ました」といったメールが入るわけだ。
今日も一日、無事に過ごしてくれたか、と安堵する私。
Re: サッちゃん
(返信2)
引用
hikaru
2021/9/3(金)08:37:20 No.selfcontrol-20210831110507.2
削除
電話の呼び掛けに答えたり、食事に費やす時間も惜しんで、
構ってもらおうとするなんて、なんて愛くるしいのでしょう。
小さくて温かい、大切な存在ですね。
Re: サッちゃん
(返信3)
引用
池見隆雄
2021/9/3(金)14:54:00 No.selfcontrol-20210831110507.3
削除
書物によると、
小鳥の感情の起伏は、人の原始型を想わせるものらしい。
飼育してみれば、まして手乗りであれば、
それが事実であると納得が行く。
ただ文鳥は、寿命が7、8年と短い。
サスケは4代目。
家内が尻尾の先をつまんでサスケを逆さ吊りにし、
そのままあんぐり開けた口の中へ呑み込む仕草をしてみせても、
彼女は少しもバタつかない。
その任せきった姿に、つい見とれてしまう。
>
返信を閉じる
<
〈体長15センチ、体重22グラム〉
引用
池見隆雄
2021/8/27(金)15:12:29 No.
20210827145143
削除
昨年11月の末に、生後ひと月半で我が家の一員となった
手乗り文鳥のサスケ。
その名前は、体格よく活発な雄(オス)との見当に因んだのだが、
次第に雌だと判明――文鳥の雌雄の見分けは、成長するに従って、
雄ならば求愛行動やその際の独特の鳴き方を示すことによって初めて可能になる。
サスケはお転婆さんなので、私自身はその男名のままで抵抗を覚えなかったが、
家内は、ひと月ほど前から「サッちゃん」を用い始めた。
なるほど、それは、「サスケ」の愛称たり得るし、
その音は、どちらかといえば雌を想わせる。
その内、家内が、サスケの歌(替え歌)をこさえた、
「サッちゃんはね、サスケというんだほんとはね。
だけど女の子だから、サスケのことサッちゃんて呼ぶんだよ。
かわいいね、サッちゃん」
サスケは自分の名前や愛称が何度も出てくるからでもあろう、
小首を傾げつつ、じっと聴き入っている。
家を離れている私に――つまり仕事中であるとか、
その歌がちょいちょい思い浮かべられる。
とともに、心の中のどこかに小さな温かな灯が点る。
家内のサスケへの愛情を、私も共有しているからだろうか?
子供たちが独立していった我が家の、言葉を伴うコミュニケーションの媒体として、
家内と私とを線分に譬えるならば、
サスケが加わることによって、それは、三角形の平面(二次元)へと開かれた。
サスケ、体長15センチ、体重22〜23グラム。
早朝散歩
引用
hikaru
2021/8/21(土)13:10:19 No.
20210821124652
削除
No.1
昨日まで10日間くらい、雨が降り続きました。
被災された皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。
雨のせいで、いま、例年の暑さはありません。
なかなか体調が調わないのですが、今朝は、早く起きることができ、
マンションの周りの植物の写真を撮りながら、散歩しました。
大雨と感染爆発と、災害列島の中にあり、心を痛めたり、
心配が絶えない時代ですね。
どうぞ皆さま、ご自愛ください。
自分でも、祈るような気持ちで、毎日を過ごしています。
<
返信(2)を読む
>
最新返信日:2021/8/24(火)10:22:16
>
返信を閉じる
<
Re: 早朝散歩
(返信1)
引用
池見隆雄
2021/8/23(月)14:06:57 No.selfcontrol-20210821124652.1
削除
私も、今年に入って健康状態が思うに任せず、
以前に比較して悔しい思いをすることが多いんだけれど、
そういう最中、例えば、
「何ができるかより、その人の存在の重さにこそ意味がある」
といった言葉に出会う。
私にとって、
hikaruさんや〇〇ちゃんが、何ができるかは全くどうでもよい。
今回のように、
その存在を認識させてもらえる機会が与えられる ということこそ恩恵。
写真の青い花の種は、何というんだろう?
Re: 早朝散歩
(返信2)
引用
hikaru
2021/8/24(火)10:22:16 No.selfcontrol-20210821124652.2
削除
> 「何ができるかより、その人の存在の重さにこそ意味がある」
> といった言葉に出会う。
池見さんは、きっといつもそんな風に思ってくれていると感じる、
大切な存在です。
ネットで調べたら、どうもアメリカンブルーという花らしいです…
>
返信を閉じる
<
〈回 帰〉
引用
池見隆雄
2021/8/20(金)13:30:17 No.
20210820131251
削除
このところ、メールなど、
どなたかからの音信(おとずれ)があればそれへ応ずることはできでも、
自発的に文を綴ることが難しい。
というより、海たる内面が凪いでいる。
こればかりは自然の勢いであるから、
私は待つより他の術(すべ)を持たない。
――自発的な表現とは、
能動に受動が加味されたもの(あるいはその逆)にも思えてくるが、
「中動態」の動詞とは、根底において、正に自然の勢いを表しているという。
例えば、日本語の、「(昔が)偲ばれる」、「憧れる」など。
“海”にまた、必ず、うねりが戻ってくる。
昨今、蝉たちの歌も途絶えがち。
いつの間にか夏も、明年に備えて、輝きを収めつつある。
〈Uさんへの返信〉
引用
池見隆雄
2021/8/12(木)15:07:04 No.
20210812144317
削除
Uさん、返信、ありがとうございます。
「反出生主義」ともいうべき特集が組まれていたのですね。
ところで、私たち日本人に馴染み深い仏教ならば、
「大乗仏教」ということになるでしょう。
そこには、私の管見によれば、
ほとんどそういう主義は見られないように思います。
「原始仏教」(根本仏教)には、
輪廻の鎖を断ち切って最早この世に生まれないという姿が、
修業の完成として少なからず示されていたと思いますが。
しかし、それが、ブッダの教説に含まれるものかどうかは、
確証がないようですね。
ブッダの言葉として私に最も印象深いのは、
成道後、初めて発したといわれている、「われ不死を得たり」という宣言です。
私などには、もちろん、その真意は汲み取れません。
ただ、そこに、
「反出生主義」といった色合いを感じ取るのは難しいように思います。
当今のUさんの心境、生活感情には、そういう行き方がなじむのでしょうか?
私も、私なりに、あまたの苦しみをなめてきました。
ここまで苦しむかと世を恨み、人を恨み、己を恨みたくなることもありました
――過去形で済ませられはしませんが。
が、その最中においても、自分の奥の奥から聞こえてくるのは、
「生きたい!」という叫びに他なりません。
何か具体的なもの、言葉を求めてでなく、そうでなく、
ただ無条件の「生きたい」という抑えがたい衝動です。
人は、自ら意図して「苦」を求めはしないと私は確信するわけですが、
では何故、「生」を求めてやまないのか?
それが、不死の喜びに、しっかり根を下しているからだと思います。
Uさんから返信が届き、それへ応答できるのも、私の喜びです。
<
返信(4)を読む
>
最新返信日:2021/8/18(水)13:46:49
>
返信を閉じる
<
Re: 〈Uさんへの返信〉
(返信1)
引用
U
2021/8/15(日)21:36:05 No.selfcontrol-20210812144317.1
削除
隆雄さん、返信ありがとうございます。
私が常々、感じていることは、仏教とは実は反生命主義の思想ではないかということです。
私の理解では「仏教は輪廻からの解脱」を目的としていますが、生きていることに価値を
置くのならば永遠に輪廻し続ければよいのであって、そこから解脱する必要などないことに
なります。
上記は、ごく初期の仏典である『ブッダのことば』(岩波文庫)などを読んで感じる
ことです。宮元啓一の『ブッダが考えたこと』(春秋社)などにも、いわゆる
「根本的な生存欲」が「無明」であるという見解が示されています。
昭和の初期に木村泰賢と宇井伯寿・和辻哲郎との間に勃発した「縁起論争」でも、その
論点の一つとして「無明」をどうとらえるかということがありました。
宇井・和辻が無明をたんなる仏教思想に対する「無知」ととらえたことに対して木村は
「生きんとする盲目的な、しかも根本的な意志」だとする異なった理解を示しました。
私は木村の見解の方が正しいと思います。
私の中にも「生きたい!」という欲求は当然ありますが、そうした欲求が「苦」の
根本原因だとみなすのが仏教ではないでしょうか?
「生」を盲目的に肯定するわれわれの常識的な見解に異議を差し挟むのが仏教であり、
現代における思想的な存在意義ではないかと思います。
(ちなみに私は仏教を真理とする見方にも疑問をいだいています)
Re: 〈Uさんへの返信〉
(返信2)
引用
池見隆雄
2021/8/17(火)14:52:45 No.selfcontrol-20210812144317.2
削除
再び、Uさんから返信が届き、嬉しく思っています。
しかし、正直言って、私は、仏教について、
Uさんと意見交換したい欲求をほとんど持ち合わせないのです。
第一、私のそれについての知識や思惟力が不足しています。
前回の私の返信では、私の知る範囲で多少述べさせて貰いましたが、
Uさんの何か切実なものを感じ、それが感じ取られたということを、
ああいう形で表現させて貰ったわけです。
――私の受け取り損ないがあるでしょうけれども。
また、盲目的な「生」への肯定は執着(無明)に通じましょうが、
無条件の肯定は、そうでないと思います。
Re: 〈Uさんへの返信〉
(返信3)
引用
U
2021/8/17(火)20:14:51 No.selfcontrol-20210812144317.3
削除
隆雄さん
知識や思惟力が不足しているのは私の方こそではあります。
学生時代から坐禅をしたり、鈴木大拙や禅関係の本を読んではいますが
未だに仏教というものには違和感を感じ続けています。
その違和感をむしろ手掛かりに、自分なりの見解を深めていければと
考えています。
U
Re: 〈Uさんへの返信〉
(返信4)
引用
池見隆雄
2021/8/18(水)13:46:49 No.selfcontrol-20210812144317.4
削除
“違和感”は、信頼できる道標ではなかろうかと思います。
私自身も、「生」への違和感を元手に、
自分に可能なことに、手を染めていると言えそうです。
こんなことも思います、
「生」に何かと条件を付す分、苦が増すのだろう と
――従って私は、沢山、苦を抱え込んでいるわけです。
>
返信を閉じる
<
〈よろこび〉
引用
池見隆雄
2021/7/30(金)11:22:39 No.
20210730110734
削除
神谷美恵子さんの著作の中に、
生まれてきたこと自体がよろこびであり、
そうと感じられることが生き甲斐である
との表現があるということを、別の人の手に成る冊子によって知った。
私は、即座に、その通りに違いないと納得した。
いったい、それに優るどんな生き甲斐があるというのだろう?
数年前の、秋の3泊グループにおいて、ふいに私の内奥から、
「生まれて来てよかったね」
という震撼と言葉とが突き上げてきたという出来事について、
「心のパレット」に何度か書き込ませて貰ったように思うけれど、
「いったい何が “よかった” なのだろう」
と 心に掛かりながら解答を得られないで来たところへ、
前述の表現に遭遇して、
「生きることそれ自体がよろこびなのだから
生まれてきたよかったのだ」 と。
無条件のよろこびに優るよろこびがあるだろうか!?
<
返信(1)を読む
>
最新返信日:2021/8/11(水)00:04:41
>
返信を閉じる
<
Re: 〈よろこび〉
(返信1)
引用
U
2021/8/11(水)00:04:41 No.selfcontrol-20210730110734.1
削除
「生まれてきてよかった」というものとは正反対の「反出生主義」という思想が
雑誌「現代思想」で数年前に特集されていたことを思い出しました。
日本人にもなじみ深い仏教にもそういった価値観が明らかに流れていると思いますが、
なぜかその点については表立って問題にされないことが自分にとって非常に不思議に
感じられます。
>
返信を閉じる
<
〈促 し〉
引用
池見隆雄
2021/8/4(水)14:45:06 No.
20210804142852
削除
今週の日曜にも、私たちにとって馴染み深い、
大野城市内の大佐野山(標高333mの低山)を目指す。
頂上の気温25度――下界はその日、29〜34度。
暑気と、朝方激しい雷雨に見舞われるというコンディションのせいもあってか、
他に人影は見当たらない。
尾根伝いの涼風を身に受けながら、弁当を開く。
足元の蟻たちへも、ご飯粒のお裾分け。
食物を巣穴まで運搬しようとの、彼らの必然―天性に添った仕事の
隙のなさ、柔軟さに気を取られるあまり、
こちらの食欲を忘れがち。
誰かの、「必然と自由とは矛盾しない」
また、「神(自然)の意図に叶うことこそ幸福の至極である」
といった、思惟の成果が思い出される。
そうそう、ほぼ毎休日ごとに山を目指す私の行動は、
おそらく必然の促しに添えている。
故に、満たされて、家路を辿る。
〈戻 る〉
引用
池見隆雄
2021/7/24(土)14:23:49 No.
20210724141647
削除
一昨夜、(協会猫の)イチが、ほぼ2ヶ月ぶりに戻ってきた。
尤も、好物のササミ(常に冷凍保存している)を鱈腹詰め込むと、
一息入れるまでもなくまた立ち去って行ったが。
その日は、イチの一歳上の兄、チビが、
2年前、病死した当日でもあった。
イチとともに、チビも戻って来たかのような感慨を覚えたものだ。
「死者は決して立ち去ることはない、戻って来ないだけだ」
と 小林秀雄は、
晩年の大作『本居宣長』の結末近くに刻んでおられるけれど。
〈皆んな〉
引用
池見隆雄
2021/7/22(木)14:38:09 No.
20210722142931
削除
昨日の午後5時前、その日から夏休みというので、
協会前の公園には、
常にも増して、子供たちの声が弾けていた。
エアコンを止め、窓を開けたところで、
午前中あれほどかまびすしかったクマゼミの声は跡絶え、
それに代わって、油蝉の方だけが、
その名の通り油を流すかのような、己の持前を伝えてくる。
子供たちも蝉たちも、暗くなれば、
皆んなの家へ帰るのだろう。
パスワード
?
ホームページ
|
携帯アクセス
|
一括削除
全 1442 件 [
1
..
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
..
145
|
一覧
]
29%使用
次
→
文字列(1単語)を含むメッセージを検索します
レンタル掲示板
|
利用規約
|
管理者へ連絡
|
障害情報
|
違反発見報告
|
管理パネル