みんなの広場「こころのパレット」

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〈一 言A〉 引用
池見隆雄 2022/12/15(木)14:10:19 No.20221215140650 削除
 真の認識は 必ず 喜びの感情を伴う。

 故に、
 
 悪しき感情(欲望)に 煩わされることがない。

〈一 言〉 引用
池見隆雄 2022/12/14(水)15:27:32 No.20221214152513 削除
 喜びを 感ずる機会が 増すと

   自分の 進む道が 定まってくる

〈Uさんへの返信 A〉 引用
池見隆雄 2022/12/7(水)15:25:08 No.20221207145242 削除
 Uさんの返信への直接の応答にはなり得ませんが、
 次のようなことを述べたくなりました。

 私も、國分功一郎さんの『スピノザ』(岩波新書)を先週金曜日に入手し、
 読み始めているところです。
 Uさんの返信中にその書への言及が見られたのも動機の一つですが、
 前に、同著者の『中動態の世界』、『はじめてのスピノザ』、『スピノザの方法』に
 馴染んでいたからということもあります。
 それらから、スピノザその人の著書、就中『エチカ』へのけっこうな追い風を受けましたから。

 さて、『スピノザ』を入手した翌々日でしたか、それを開きつつ、ふと、
 「わが国で、スピノザの全集というものは出版されていないのだろうか」
 と思い立ったわけでした。
 グーグルで検索したところが、岩波の今年の新企画として、スピノザ全集が予約出版されるとあり、
 何とその第1回配本(『エチカ』)が今月20日だというのでした。

 私は少々興奮を覚えました、どういう興奮か?――縁を感じるとでもいいましょうか。
 実は私は、50年以上も前に、書店の店頭で、
 スピノザの初期の著述『知性改善論』の薄っぺらな文庫本を見出し(当時50円でした)、
 これくらいの分量なら哲学書でも読み通せる、と求めたのです。

 論理の道筋に添って行くのは、私にとって至難ながら、
 論述以前といいますか、そもそもその著述に手を染めたスピノザという人は、
 何か確かなものを会得しているとの直観めいた感動に促されて、
 最後まで読み通すことができました――尤も、その著述自体は未完の作なのですが。

 それ以来、スピノザは、私の内面世界の一隅に居を構えており、
 國分さんの『中動態の世界』第8章が呼び水となって、
 俄然、脚光を浴びることになりました。

 スピノザ関連の書物の他、私は、繰り返し主著、『エチカ』を取り上げていますが、
 今度は、國分さんの『スピノザ』をきっかけに、
 この哲学者の他の著作へも目を向けることになりそうな雲行きです。

 尤も、私のスピノザへの関心の源を突き詰めると、
 彼が若年、“神即ち自然”を悟達した、その事実への観入ということで、
 これと、禅の公案、「肘、外へ曲がらず」とは無縁ではなかろうと見当を付けています。

〈Uさんへの返信〉 引用
池見隆雄 2022/11/25(金)14:20:43 No.20221125140816 削除
 Uさん、お久し振り。返信、ありがとうございます。
 國分さんやドゥルーズを読まれているし、
 今日までだいぶ哲学書に親しんでも来られてるわけですから、
 今すぐにでもスピノザ自身の著作を手に取ることは、十分に可能でしょう。

 確かに、“異質”性はあるかと思いますが、
 それはまたUさんが続けられていたテーラワーダ仏教の瞑想へも通ずるのではないでしょうか?
 ぎりぎりまで、徹底して論理的で、最後は、
 國分さんの表現を借りれば、「自己変容」ですもんね。

 昨朝、『エチカ』のある一節を読みながら、
 鈴木大拙さんが、その著書の中で言及されている、
 「肘、外へ曲がらず」との公案へのヒントが得られたように思いました。
 何となくそれが、けっこうな月日、私の心に懸かっていたのです。

 報道によると、そちらの方は、寒気が厳しいようです。
 くれぐれも自愛願います。

 近頃も、天体を望見していますか?
返信(2)を読む 最新返信日:2022/12/5(月)22:28:47

〈引 用〉 引用
池見隆雄 2022/10/14(金)15:13:34 No.20221014145458 削除
 スピノザの主著、『エチカ』中でも、
 表現として比較的分かりやすく、
 しかも、何となく鼓舞され心に残る箇所を、
 取り敢えず一つ、以下に引用してみよう、

 「しかし、人間の能力は、きわめて制限されているものであり、
  また外部の原因の力によってかぎりなく凌駕されている。
  したがってわれわれは、
  われわれの外にあるものを自分たちの使途に適合させるほどの絶対的な力をもちあわせない。
  
  だが、たとえわれわれの利益を考量したいという欲求に対立するものが生じても、
  われわれは、自分たちの責務を果たしたこと、
  われわれの力はそれを避けうるほど十分ではなかったこと、
  またわれわれが全自然の一部分であり、その秩序に従っていることなどを自覚しているならば、
  冷静にそれにたえるであろう。

  もしこのことを明瞭・判明に認識するならば、
  知的認識によって規定されるわれわれのかの部分、
  いいかえれば、われわれのよき部分は、それに完全に満足し、
  そのうえ、その満足を固持するように努力するであろう。

  なぜなら、われわれには知的認識のゆるすかぎり、
  必然的なもの以外には何も欲求することができないし、
  また一般に、真なるもののうちにしか心の平和をえることはできないからである。

  以上のことから、われわれがこのことを正しく認識するならば、
  それだけでわれわれのよりすぐれた部分の努力は、
  全自然の秩序と一致するのである」。    
                      (中公クラシックス版より)
返信(1)を読む 最新返信日:2022/11/23(水)10:18:48

〈必然と能動 A〉 引用
池見隆雄 2022/11/17(木)14:35:23 No.20221117135026 削除
 「はーい〇〇です」と
 いつもながら、何らの底意も見通せない、張りのある声での応答。
 それへ対し私は、つい今しがた思い浮かべられたそのまま
  (自意識によるコントロールが不可能ということは、この事態は、
   私にとって必然――自然全体の秩序に則っていると見なすべきではないか)
 を、喉の奥から送り出すと、
 「そうなんです」。

 それに導かれるまま、もう一歩、私の着想は変転する、
 「必然とは、善でも悪でもないということですね」
 私が言い終わらぬ内、またしても、
 「そうなんですよ」

 言うまでもなく、私は、私自らの明るんだ未来を打破するかのような内面の衝迫的仕掛けを
 悪と区分けせざるを得なかったが、
 それがひたすらな偏見である、とこのとき気付かされたのだった。

 「善でも悪でもない必然であれば、それを、能動的に受けるしかないわけですね」
 重ねて、小揺るぎもない肯定がもたらされる。
 「逃げることと、受けることとは、全然、異なる次元と思われるのですが・・・」
 「そうです」
 「この今、私は、身動きもできないというのと違います。
  これから食事も摂らなくてはなりませんし、その後片付けだってあります」
 「生きてるんですもん」

 その方から、まるで幼児が、何らかの喜びでとび跳ねてるかのような気配が、
 電話越しにも如実に漂ってくる。
 何度か、耳にしてきたこの表明という船は、
 常に“無条件の喜び”へ錨(いかり)を下ろしている。

 「何ができるかどうかでなく、まず生きているという事実にこそ価値があるのです」

 私自身もまた、内省の深みへ錨を下ろして行く。
 「・・・どのような鬩(せめ)ぎ合いに翻弄されていようと、
  それながらに、存在の主体たる私は、
  たとえささやかでも生きる業(わざ)に手を付ける――果たしていかなければなりません」
 「どのような事態も必ず変化するのです、季節が移ろうように」
 「ですから、“今はこれで良いんだ”と能動的に受けるわけですね」
 「事態から逃げようとか、逆にそれをどうか始末しようと執着すると、こじれ長引きます。
  “今はこれで良いんだ”と受けると、それは良い方へ変化します」

 以上の問答を了えたからといって、
 直面した苦しみから、私が解放されたなどということでは毛頭ない。
 ただ、いわば、苦しみの表面が幾らか滑らかになったとでも。
 あるいは、その方から以前、教示された表現を借用すれば、
 その苦しみは苦しみでも、喜びに抱き取られた苦しみだった。
 
 スピノザの主著、『エチカ』よりの引用、
  「たとえわれわれの利益を考量したいという要求に対立するものが生じても、
   われわれは、自分たちの責務を果たしたこと、
   われわれの力はそれをさけうるほど十分ではなかったこと、
   またわれわれが全自然の一部であり、その秩序に従っていることなどを自覚しているならば、
   冷静にそれにたえるであろう」。(中公クラシックス版より)
                                  (終わり)
                 
                       

〈必然と能動 @〉 引用
池見隆雄 2022/11/14(月)14:37:22 No.20221114141203 削除
 例えば、何らかの出来事をきっかけに内なる風景が開け、明るみ、
 未来を創る道筋も見定められそうで、心躍りに駆られる、
 正にその瞬間、
 それを阻もうとする、あるいは不可能との刃を突きつけてくる、
 器質的(現在なら左耳の聴力低下)、神経的不均衡が頭をもたげてくる、
 少なくもこの三、四十年間、
 そうした厄介に、私は、たびたび見舞われ続けてきた。

 耳――聴覚に焦点を絞れば、
 何らの対象や必要もないまま異様に緊張し、
 やがてその機能の低下を前触れする耳鳴りが始まる――

 耳鳴りは逆の方向、つまり改善の暗示の役目も果たすが、
 両者でその音の高低や音色が異なる。
 一般に、高くて細いのはマイナスを、低くて幅広のはプラスなのだが、
 この場合はむろん前者である。

 その緊張を弛めるべく意識的手立てはさらになく、
 この状態が持続すれば聴力が低減との強い不安、恐れに脅かされつつ、
 手を拱(こまね)いているしかない。
 そして、大抵、服薬などによる折角の改善も、元の黙阿弥に落着する。

 つい10日ほど前も、そうした苦境に陥りかけ、
 ある方へ電話を入れる選択をせざるを得なかったわけだが、
 それはこの1年半ほどの習慣めいてもおり、最後の手段めいて認識されてもいた。

 不思議の感を拭い切れないが、
 さて電話を入れようと決めると、ほぼその都度、私の意識が少なからぬ変容を蒙る。
 このときも、例外でなく、
 混濁の最中へ清明な影が仄(ほの)めき出し、やがてそれが言葉へと形成される、
 ――自意識によるコントロールが不可能ということは、
   この事態は、私にとって、必然というべきではないか、と。
                            (続く)
 

〈父(男)性的人間愛〉 引用
池見隆雄 2022/11/9(水)14:48:46 No.20221109144132 削除
K 様

 メール、ありがとうございます。
 実は私は、井上荒野(いのうえあらの)さんの小説作品へ、目を通したことはありません。
 それどころか、父君、光晴氏のそれでさえ、私好みの文とは思えず、
 幾種か手に取ったものの、通読したことがないのです。

 しかし、「文学伝習所」に数度参加して、同氏のお人柄からは、大いに発奮させられました
 それを一言に言うなら、Kさんのワイルド&センシティヴ――との形容が当たっていると思います。
 あるいは、父(男)性的人間愛。
 その語られる内容もさりながら、謦咳に接しているのみでも、
 ムラムラと身内に“生きんかな”との胎動が頭をもたげて来るのです。

 また機会があれば、書物や光晴氏の話をしましょう。

追伸
 今度、映画化された荒野さんの作では、
 寂聴さんと井上夫妻との、人間の業めいた関係性の機微が扱われているようです。
 
          〇月〇日        

全日本幼児教育連盟会長、畠山國彦氏の訃報に接して 引用
池見隆雄 2022/11/7(月)14:36:58 No.20221107142106 削除
F先生

冠省
 先日は、私が、耳疾に災いされ電話を取れなかったため、
 郵送にてご尊父、畠山先生のご訃報をお寄せ下さり、大変お手数をお掛けし恐縮です。

 私はニ度、直かに畠山先生にお目に掛からせていただきました、――当協会、また父の自宅において。
 全日本幼児教育連盟のご活動については、
 協会宛てご恵送下さる催しのパンフレットを通じて知るのみという、ほとんど無案内に近い状態なのですが、
 それに掲載されている記事、写真によってでも、
 単なる音楽教育でなく、個々の子供たちの身体から人格へ亘る、それこそ「全人」教育であることが伺われていました。

 また、畠山先生から発散されているある種のカリスマ性、また情熱には、
 私自身、自らの仕事へより能動的に取り組むべく鼓舞されるのを体感させていただいたものです。

 そこで同先生の存在の喪失は、連盟にとっては極めて大きい痛手てあろうとは容易に察せられますが、
 その活動の幅と情熱とは、F先生を始めとする幹部の方々、諸スタッフの方々へほぼ余すところなく受け継がれているに違いなく、
 連盟の今後の更なるご発展が、自ずから期待されます。

 明年1月5日の「お別れ会」については改めてご通知いただけるとのこと、
 その際は宜しくお取り計らい下さい。

 また、末筆ながら、母・葉滿代の葬儀へ、わざわざ遠方よりお越し下さり、
 過分の香料・御供花を賜り、重ねて感謝申し上げます。

 以上、時節柄のご自愛を祈念しつつ、まずはご返信まで。
                           草々

〈Yさんへの手紙――悪い患者、狡(ずる)い患者〉 引用
池見隆雄 2022/10/28(金)14:45:37 No.20221028141839 削除
 お手紙拝見しました。
 いつもながら、Yさんのお世話、心遣いの濃やかさには感心させられます。
 医療や相談体制に納まり切れない方々にとって、心強いことだろうと察しられます。
 医学の心得のない私にとって、減薬についてのご相談へまっとうな応答はできそうになく、
 極めて個人的なことしか述べられそうにありません。

 ある方が、私への助言の内で、
 「私たちの身体は、医学に合わせて造られてはいない」 と言われたことがあります。
 だからというのではありませんが、
 私も、医学(薬物)へ対して全面的に依拠するのでなく、
 あくまで私たちの治癒力の補助だと捉えるのが賢明だと思っています。

 私は現在も耳鼻科の薬を服用していますが、ある時期からは、
 自分の症状に合わせて適当に加減――と言っても減らす方向を旨として、するようになりました。
 私の症状とストレスとの抜き差しならない相関を医師へ伝えること自体不可能ですし、
 たとえそう出来たとしても、
 従来の主に投薬の治療へ、どう反映されようもあるまいと諦念されたからです。

 また、ある薬物の副作用のため、頻々とひどいめまいに苦しみました。
 さすがにこれについては、
 その因果関係を否定する医師へ、私の体験――事実を受容して貰うべく力を尽くし、
 ようやっと薬量を半分にして貰ったところ、
 めまいは消失し、症状の方は改善されるに至りました。

 現在はそのように、自己判断で服薬を加減しているのですが、
 医師の前では、処方通りを守っている顔をしています。
 医師とトラブルになっても不愉快なばかりですし、
 服薬も今のところまだ必要には違いないですから。――悪い患者、狡い患者です。

 Yさんが相談を受けられている女性に、そんな患者になることを勧めるつもりは毛頭ありませんが、
 これも一つの行き方かと思い、赤裸に私自身のことを綴ってみました。
 とくに精神薬は、服用しなければ直き生死に関わるという性質のものでなく、
 効果もいわゆるアバウト、個々人でまちまちですから、
 患者側や身近な人の判断の余地が少なくないと思われます。
 もちろん、減薬するにしても徐々に、慎重に、容態を見ながらということになりましょうが。

 以上のような根拠の希薄な応信で恐縮です。
 ご本人が少しでも心地良く、自由に過ごされますよう祈りつつ。

        〇月〇日               池見隆雄

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