みんなの広場「こころのパレット」

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〈実体を求めて〉 引用
池見隆雄 2023/4/4(火)14:39:00 No.20230404134804 削除
 先月25,26日(土・日)に、愛知県から位已光児さんに来福いただいて、
 2日間の研修会を開く機会を得られた。 
 同ゲストによる研修会はこれで9度目。
 今回のテーマは、〈親鸞聖人の悟り――身心一如の智慧〉。
 テキストはその都度、位已さん自身で書き下ろされる、驚くべき短期間のうちに。

 日本心身医学協会の研修会は、エンカウンター・グループ(EG)の他、
 ゲストを迎える形態でも「語り手EG」と称している。
 つまり、参加者は、受け身的に講話を伺うに終始せず、
 ゲストへ対し大いに疑念や感想を表明し、参加者間の対話・会話も起こり得る。

 そして私はファシリテーターの役割を担うわけだけれども、
 その性格として、自らも、ゲストや他の参加者へ、その時々の気持のありようを伝えることも忘れない。
 というより、そうせざるを得ない気持に添って行く。

 私は9回目に至って、位已さんの研修会における自らの変化に気付くことができた。
 1日目から薄々とその感触へ注意を引かれていたのが、
 2日目に入ってほぼ確信が持てたのだった。

 どういう変化か?
 前回まで、私は、私自身の発言について、それらを位已さんに比べるとき、
 「何とまあ浅薄なのだ」と呆れ、卑下せずにはおれなかった、
 研修会を開けたことには納得が行っていたとしても。
 自らの発言や応答が、従来とは異なって幾ばくか、実体を踏まえている感が持てるとでも言おうか・・・。

 その“実体”ということを譬えで述べてみるとすれば、
 ――今、私が、満天の星を仰げる、どこか山の頂上なり、異国の平原に立っていたとしよう。
 以前の位已さんの研修会に於ける私は、唯だ唯だ、それら夥(おびただ)しい星々を見上げて感嘆する他はなかったのだが、
 今度の変化とは、私自身が、その星の一つとして発言しているかのようだった。

 但し、目に映る星を実体と見なしているつもりはない。
 スピノザは、「神即ち自然」を、「絶対無限の存在者」とも言い換えている
 ――ついでながら、阿弥陀仏もまた、インドの言葉「アミーダ(無限を含意する)」を人格神化したといわれる。
 (因みに、親鸞の、様々な人宛ての書簡を編んだ『末燈抄』より、有名な一節を引用――
    「無上仏と申すは、かたちもなくまします。
     かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり」)

 それを平たく言い換えるなら、絶対とは唯一であり、
 無限とは始めなく終わりなく、境目なく、形のない存在ということになろう。
 また、形がないから何でもあり得るとも。

 この世の、あるいは宇宙のありとあらゆる個物は、
 形のない実体がそれぞれに形を取ったのだとスピノザは言い、位已さんも説かれる
 (思想界では、これらも存在論の一とみて、「一元的汎神論」と括る)。

 星々も形のない実体がその形を取ったのだから有限に違いなく、
 有限なものが実体であるはずがない。
 しかし、その形を取ったのは実体であるから、形は有限でもその存在は実体でないのではない。
 私もまたそういう存在である、星と私との存在のありようは対等である。
                                
 今度の研修を通じて私は、星々との対等性を些か感得できた、
 そういうことにしておきたい。
                                 (終わり)

〈こころ(わたし) と 心(私) A〉 引用
池見隆雄 2023/3/24(金)14:30:09 No.20230324141756 削除
 そして、“精神”ですが、こちらも神の表現に違いなく、
 しかしカタチというものを備えていないが故に、
 始めなく終わりなく、境もないという神(自然)と同様の本性を有しています。
 身体は必ず滅しますが、こちらはそれと無縁なわけです。

 また、先述の“観念”とはイメージのみならず、私たちが普通、“こころ”と思いなしているもの
 ――意識・感情・種々の欲などの座でもあります。
 こちらの“こころ”は常に変化しており、身体とともに雲散霧消するので実体のないものであり、
 それへ対して精神はカタチのない実体であり、それはまた私たちの“心”そのものでもあるのです。
 カタチのない、唯一の実体として“心”(精神)が、観念としての“こころ”をささえているわけです。
 また、この“心”と“こころ”とは、“私”と“わたし”でもあります。

 先に、すべての個物はカタチのない実体の表現と提示しましたが、
 位已光児さんによれば、表現は表現でも、無条件の喜びの表現なのです。
 もし、私自身がここで、以上を踏まえて、私たちが生きる目的、意味とは何かを改めて思案するとすれば、
 “こころ(わたし)”を通して“心(私)”の無条件の喜びを見出すことであろうかと思います。

 実は私たちは、日常においても、折々、そういう瞬間を体験していないわけではないと推測しますが、
 目的となれば、喜びを見出し、一体化することかと。
 そして、それを他者と共有して行く。
 それが限りなく拡大して行けば、「世界平和」も可能になるでしょう。
 いや、それ以外に、真の平和への道はないのではないかと思います。

 位已さんの次の一言は、それを示唆しているでしょう、
 「皆んなそれぞれ違うのに、同じ一つの地球の上に住んでいる」。
 またスピノザは、
 「喜びは徳そのものであって、徳(の実践)の報酬ではない」と。
 この「徳」を「世界平和」と捉えてもまちがいではないと思います。

 以上、甚だ拙い開陳ですが、現在の私の精一杯のところです。
 せめて精一杯を尽くさないと、Kさんの当面の戸惑いに届くまいと――。

         令和4年10月〇日                池見隆雄

〈こころ(わたし) と 心(私)  @〉 引用
池見隆雄 2023/3/23(木)14:24:58 No.20230323141435 削除
K 様

 昨日の「〇〇会」に出席された際のKさんの様子が、会の後も気掛かりとなり、
 次のようなことを思い巡らしましたので、何らのお役にも立ち得ないでしょうが、
 取り敢えずお送りする次第です。

 まず、前提として――
 スピノザは、若い時分に、「神即ち自然」を直覚(確信・得心・会得)したと言われており、
 彼の主著『エチカ』は、それを、論理的に解説しようとの意図から表されたもののようです。
 一般に、思想書・哲学書においては、
 考察を積み重ねた末に、結論に到達するという行き方だと思いますが、
 『エチカ』は、その逆を辿っているともいえるのでしょうか。

 さて、スピノザは、精神(内容)を、
 「(精神は)身体の変状とその観念からなる」と規定しています。
 この“変状”には種々の意味合いが込められると思いますが、
 今は煩雑さを回避するために、
 私たちの五官が外界と接触すること、刺激を受けることに限定しておこうと思います。

 その事態を経て、私たちの内に(脳に)、外界のイメージが形成されることとなります。
 それを“観念”と言って良いでしょう。
 その観念は、現代科学において、実際の外界とは非常に異なっていることが証明されているわけですね、
 いわば、私たちの内界が、外界を歪曲している。
 その筋に添えば、私たちは幻影の内に生きている。

 ここで、方向を転じて、私たちの存在、また外物の全ても、
 スピノザによれば、神=自然から中動態的プロセス(内的原因)によって顕現したとされています
 ――創造されたのでなく顕現、言い換えると、全ての個物は、神の“表現”なのです、
 神は唯一の実体ですから、その表現は、実在ともいえ非実在ともいえます
 ――神=自然ですが、自然=神ではないのです。

 スピノザは、神(自然)を「絶対無限の存在者」とも称しています。
 絶対は比べるもののない唯一ということであり、
 無限は始まりも終わりも、境もない、つまり形がないということです。
 ですから、それは、「カタチのない唯一の実体」と言い換え可能です。
                                (続く)

〈Mさんへの手紙――心身平行論〉 引用
池見隆雄 2023/3/16(木)14:12:58 No.20230316135421 削除
 協会のすぐ前の公園で、ときどきウグイスが鳴いてくれます。
 同一個体なのか、次第に鳴き方が、上手になるようです。
 先日は、お便り、ありがとうございます。
 行事などに取り紛れ、返信が遅くなってしまいました。

 インタヴューの新聞記事は、フェイスブック上で既に拝見していました。
 一般に、「○○障害」と括られる身体・食との付き合いが、20歳の時から長年月、継続したのですね。
 そして、T先生との邂逅を直接の契機として、次第に改変されて今日に至られた、
 心身両面において。
 顧みられて、「さびしかったんだ」と気づかれた。
 私は、ほとんどMさんの過去につき何ら知るところはありませんが、
 互いの内面を語り合えるような相手、友人などは皆無だったのだろうと推測されます。
 それを身体が、特有の生活習慣という形式で補ってくれていたのでしょうか。

 スピノザの思想が、「心身平行論」と称されることがありますが、
 心と身体ともちつもたれつ、何とか当の個体を生かそうとしているのだと思います。
 あるいは、人間の本質とは、個の存在を維持しようとする固執(努力)であると。

 Mさんは現在、過去とは異質の仕方で、ご自分を維持、表現されておられます。
 過去の仕方に対していえば、それは能動的、あるいは自由であるでしょう。
 〇〇障害を根として今日の花が開いたとも形容できそうですね。
 とすれば、Mさんの言われる通り、「〇〇障害になって本当によかった」でしょうか。
 
 昨日、会報が刷り上がってきましたので同封します。
 Mさんの益々のご活躍を祈りつつ、以上まずは返信まで。

   令和4年3月△日         池見隆雄

〈『スピノザ――読む人の肖像』〉 引用
池見隆雄 2023/3/8(水)15:00:38 No.20230308141845 削除
 昨年10月に刊行された國分功一郎さんの『スピノザ――読む人の肖像』を了える。
 それへ手を伸ばしたきっかけの一つは、
 この掲示板へのUさんの投稿中に、同書との取り組みについて述べられていたからだった
 ――「Uさんも、読み了えましたか?」

 私は大変な遅読家で、一昨々日まで3ヶ月近くを要した、
 尤も、読書の対象をこれのみに絞っていたわけではないが。
 新書で400ページを超える例を、他に知らない。
 特に近年は200ページにさえ届かないのがほとんどだ。
 分量からのみでもこの著が力作なのが窺われるが、読み進めるにつれ、その感は募る。

 「あとがき」では、完成へ至る過程で、著者の血肉同然の哲学体系が、
 あたかも改宗を迫られるかのように容赦なく見直され、
 組み立て直されねばならなかった労苦の、率直な述懐に接しられる。

 この書の、ドゥルーズを始め従来のスピノザ研究からの一歩前進は、
 この哲学者固有の“自意識”の概念へ対する新たな視座の提示だろう。
 例えば、意識はニュートラルではなく、必ず善悪の判断を具備しているといった
 ――スピノザ自身は、「意識」という言葉を使用することはなく、
   それに相当するのは「観念の観念」だ。
   つまり、目に映ずる対象などの観念を、それと認識する観念。

 それにしても、私がこの著作の中で最も気に入っている國分さんの解釈的な表現は、
 「神の本質とは、存在していることそのこと、作用することそのこと」という一節。
 それは、今西錦司さんの、「人の上に神なく、人の下に生物なし」、
 また、聖フランシスコの、「兄弟なる太陽、姉妹なる月」、
 などと響き合って止まない。

 存在していることそのこと、作用していることそのことにおける限り、
 神、人、人以外の生物、そして無生物も、永遠に平等なのだ。

 『スピノザ――読む人の肖像』は、“スピノザ入門”的側面も有していると思う。
 著者がこの哲学者の人物像と思想形成を語る上で必要不可欠と見なした伝記的記事が、
 全体に比せば決して多くはないページ数ながら、
 ときに小説の助けも借りながら、昨日の出来事のような生々しささえ漂わせる。

 このような著者の配慮、構成ゆえに、
 スピノザの人生や思想と今日まで無縁な読者でも、戸惑いを覚えることはなかろうと思う。
 唯だ、上記したプロセスを経た作であるから、
 読み抜くには、それ相応の労力が求められるだろう。

 時たま、入門的側面と新たな研究成果とを高い次元で兼ね備えた書物が現れるが、
 國分さんの近作を、そういう得難い一冊だと、私は勝手に決め込んでいる。

〈最高の満足〉 引用
池見隆雄 2023/2/13(月)13:53:09 No.20230213134631 削除
 前回の書き込み、〈罪と満足〉の最後で言及した、
 スピノザ『エチカ』の一節を、偶々、探し出したので、以下に。

  「自己満足は理性から生じることができる。
   そして理性から生じるこうした満足のみが、
   およそ与えられうる満足の最高のものである」

 スピノザ言うところの「理性」とは、ここでは一応、
 感情や、感情に基く善悪の判断に汚染されない認識
 としておこう。
 

〈罪と満足〉 引用
池見隆雄 2023/2/1(水)15:10:13 No.20230201141129 削除
 休日にしばしば私は、福岡県那珂川市郊外の「八龍神社」界隈へ出かける。
 うちの子供らが保育園から小学校卒業までの間は、
 ほぼ毎日曜に出かけたといってよく、
 神社周辺の田畑、広場、小川、里山などは、彼女らの恰好の遊び場であり、
 種々の植物、動物に親しむ貴重な機会でもあり得た。

 頭を廻らせば、種々のエピソードが思い浮かんで来る。
 例えば、そこへ、家内の運転する車で着いて間もなく、
 保育園児の三女が、
 「ヘビばいじめよう(蛇をいじめている者がいるから、助けてやって)」
 と私へ、理不尽さに堪えかねるといった顔付きで訴えて来た。

 私は当時、出来るだけ他人に接触したくない心情を抱えており、
 その訴えに困惑しかけたが、
 三女の心を救ってやらないでは、今後、父親として認知してもらえまいと心を決めた。

 彼女を先に立てて、境内の疎林へ入って行くと、
 果たして小学生の男児二人が、てんでに竹の棒を振りかざして、
 懸命に逃れようとくねる物を追い詰めている。

 「ヘビは何も悪いこといとらんやろ(してないだろ、そうじゃないか)」
 とできるだけ事を荒げたくないために、私は彼らへ対して意見めいた言葉を吐いた。
 しかし彼らの方は、その理屈に納得したというより、
 横合いから現れたのが大人であるが故に静止したと私には認められ、
 その間に、襟巻のような黄色を首へんにあしらった1メートルほどの生き物は、
 木の根方のうろへ逃げ込んだ。

 勢い込んでいた対象をふいに奪われた子供らは、その反動か妙に神妙で、一方が、
 「この前、お祖父ちゃんが、平口(ひらくち――マムシのこと)を殺した」
 とぽつりと漏らす。
 「お祖父ちゃんは強いね」と反射的に応ずる。
 彼らにとって、蛇は悪の象徴であるらしく、
 それは退治してよいもの、いや退治する(殺す)者は称賛にさえ価し、
 自分たちは、いわば正義に則っていたのだといわんばかりの意識が伺われた。

 しかし、私の応答が、結果として、彼らの行動を間接的に是認することになったためか、
 思いの外あっさりとその場を去って行った。

 私自身、高校在学中、我が家の庭に見出した蛇を数匹、
 ただ単に、私の母がこの生き物を忌み嫌うという理由からだけで手に掛けたことがある。
 その罪障感はいまだ払拭されておらず、
 何かのはずみにおのれの仕打ちが、鮮やかに蘇りさえする
 ――ぜんたい、私は、幼少期以降、内訌しがちな鬱憤を、
 昆虫を始めとする小動物たちへ向けて執拗に発散させており、
 それがついに、爬虫類へまでエスカレートしたという気味合いだったろうか。

 40年以前、神社を囲繞(いにょう)する田園地帯には、多種、多数の動物が棲息していた。
 無論、蛇に遭遇することも稀ではなく、
 私は、「おヘビちゃん」と子供らに、彼らを指し示すのを常とした。
 その愛着めかした言い回しも奏功してか、
 子供らは、蛇をことさら厭悪せず、怯えることもなくて済んだ。

 さて、話を戻さねば。
 二人の男児が去った後、三女がどのような様子で、
 何らか吐露したか、全く私から記憶が抜け落ちている
 私自身はといえば、大きな荷を肩から下ろしたかの安堵感と、
 為すべきことを為したという充足感とに包まれて、残るその日の時を過ごしたと思う。

 またしても、スピノザ『エチカ』から引用、
 「自己満足は人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである」。
 スピノザはさらに、
 自己満足は、人間にとっての至高の喜びに隣接する位置を占めると述べるが、
 今、その箇所を見つけ出せない。

〈いつまでも〉 引用
池見隆雄 2023/1/25(水)15:29:20 No.20230125150156 削除
 ここ一年数ヶ月ほど、私は、仕事場からバイクで程近い、「〇〇外科・整形外科」へ、
 頸椎変形の症状で通っている。
 この症状が自覚されてから優に10年を超しており、
 この医院は同科の三ヶ所目なのだが、ちょっとやそっと快方へ向かわない。

 昨年末、年内最後にこの医院を訪れ、牽引や電気治療を受けた後、
 支払いのため待合室に控えていたところ、
 図らずもBGMが私の聴覚をノックしてきた。
 ここのそれは、常に、ごく控え目の音量を与えられたクラシックのピアノ独奏曲。

 突発性難聴を抱えて、そういった小音量の楽音へさえひどく拒否的に鋭敏で、
 まして騒音となれば・・・ 
 それら外部からの音響が、
 萎え気味の聴覚への更なる負担となるとの強迫的な怯えに支配されがちなのだ。

 それまで、病院のBGMへ対しても、それがないかのように意識を働かせていた。
 その構えが治療後の心地良さによってふと弛んだとき、
 音楽の微風が、私の聴覚、
 というよりそれを待ち望んできた、私の心の一点に懸かるエオリアン・ハープ(風琴)の弦を掻き撫で、
 その波動が忽ちに胸中を一杯に満たし、目頭を熱くさせた。

 久方ぶりの音楽の到来。
 個々の事物が自然の内に存在するように、
 音楽も自然の内にある秩序を保って存在し、
 こちら側の受容する条件が調うのを待っていてくれる、いつまでも。

 音楽も私も、いつまでも存在し続ける。

〈二女をダシに・・・〉 引用
池見隆雄 2023/1/5(木)14:48:48 No.20230105135704 削除
 昨年12月30日、二女の〇回目の誕生日。
 ケーキにろうそくは立ててくれるな、と本人からの要望。
 彼女は、幼少早期から読書好きだったので、今回も、私からの主たるプレゼントは本。

 今回は二種、ジェーン・オースティンの『ノーサンガー・アビー』と・・・
 あと一冊がなかなか思い付かず、誕生日の4,5日前にやっと、
 セルマ・ラーゲルレーヴの『キリスト伝説集』に落ち着く。

 オースティンは、高校生のとき、私の蔵書の内から『高慢と偏見』に親しんで以来、
 彼女のお気に入り。
 昨年も、同作者の『マンスフィールド・パーク』を選んだ。

 ――仮に二女にとってそれらの作が既読だったとしても、
 忘れっぽいという素質に恵まれているので、
 ほぼ初見として楽しんで貰えるという安心感がある。

 ところで、ラーゲルレーヴといっても、ご存知の方は少数者かもしれないと思う。
 『ニルスの不思議な旅』の作者といえばお分かりだろうか?
 この作は、曾ての二女の最大の愛読書の一つで、現在も、その三冊本が、我が家の書棚に並んでいる。

 『キリスト伝説集』を選んだ動機の一方は、『ニルス・・』に基づく彼女の好尚への判断。
 もう一方は、私自身が、学生時代にそれを文庫で手に取ったときの、
 いまだに色あせない意外性と清々しさの入り交じる、独特の趣向の享受を、
 二女に引き継いで貰えればという、少なからぬ自分本位。

 なお、ラーゲルレーヴについて記せば、この人は、スウェーデン生まれの女流作家で、
 1909年度のノーベル文学賞の受賞者――初のスウェーデン人、及び女性ノーベル賞受賞者でもある。
 大変早熟な人だったらしく、10歳にして聖書全篇を読み抜いたという。
 垢抜けた装丁のキリスト教系の出版社から出ているその作の、
 読後感を聞かせて欲しいと二女に要請している。

 昨年9月下旬の私の誕生プレゼントとして、二女の方も、書籍を贈ってくれた。
 ナラティヴセラピーの入門書と、『言語の中動態・思考の中動態』。
 これらは、私の方からリクエストしたのだ。どちらも、私の仕事への参考書として。
 こちらへ貰う方はむろん、贈る方の書目も、
 私の場合、先に記したように、けっこう自分本位だ。
 それをやんわり受け止めてくれる鷹揚(おうよう)さが、彼女には具わっているようだ。

 彼女と愛犬のエル(トイプードル、7歳、男の子)、そして私たち夫婦とで、
 ときどき山歩きを楽しむ。
 ――彼女が、「エルも寿命の半分」と洩らしたことがある
   (エルのような小型犬の寿命は、15歳くらいと見込まれているらしい)。

 この日常的な一コマも、いつかは懐かしい思い出になる、
 そうに違いなかろうが、臆せずより真実へ目を転ずれば、
 今日この日、この一日への没頭にこそ、“永遠”が影を落とす。
 具体に即していわば、
 歳を重ねる(変化する)エルとともに、7年前、昨日、明日も、普遍の彼が存在する。
 ――存在することそのことが、私たち存在者の本質。

〈文 鳥〉 引用
池見隆雄 2022/12/21(水)15:10:16 No.20221221142532 削除
 サスケ(文鳥・女の子)と遊んでやっているつもりでいたが、
 逆に、自分の方が遊ばれていたのかも、と家内が漏らす。

 例えば、サスケが家内の右膝の上へ来たとする。
 家内は反対側の膝を掌で叩く、するとサスケはそちらへ跳び移る。
 またその反対側が叩かれれば彼女はそちらへ、無心気に。
 
 何セットかそれらが反復された後で、家内は異なるエクササイズを挿入する――胸を叩く。
 サスケもそれに応じる。
 今度は、左右の膝の間に胸という三角が、何セットが継続されるわけだ。

 そこへきて、家内が、元のように、左右の膝間の平行移動を促すべく手を操ると、
 サスケが動作を止め、
 「なんで? 」と不審げな目の色で家内を見上げたという。

 そのことから推測されるのは、
 サスケの行動は、決して、家内の手の動きへの条件反射でなく、
 その構図をもイメージしながらであるらしい、ということ。
 別言すれば、家内の、自分を試みようとの意図を、小癪(こしゃく)がりながら。

 更に推測を重ねれば、
 家内の意図に「合わせてやるか…(喜ぶだろうから)」という遊び心も持ち合わせている。
 それを元の単純な左右の動きへ戻された日には、
 鳥(サスケ)としてのプライドが傷つくのかもしれない。

 彼女は、そんなふうに、
 私たちとの様々な関係のありようを、俯瞰的に把握しているかもしれないのだ。
 確かに、そう想われる節が、種々の場面で認められる。

 彼女は現在2歳と2ヶ月。
 この秋には初の産卵も経験している立派な成鳥である。

 序でに記しておけば、産卵がいたく負担だったらしく、
 生死に関わるかの容態を呈したので、家内が病院を受診させたところ、
 体力消耗につけ込んでメガバクテリアが大量に発生していると発覚。
 抗生物質と栄養剤とが処方された。
 
 点眼薬の容器めいたそれから、小鳥に薬剤を含ませるのが容易(たやす)くないことは、
 想像に余りある。
 しかし家内は、サスケ以前の二羽の文鳥を手塩にかけた経緯があり、
 サスケを捕えた手の指でその嘴をこじ開け、首尾よく目的を果たすことができた。
 サスケは4,5日で倍旧の元気さを取り戻した。

 彼女が、私たち、取り分け家内の存在を切実に必要としているのは言をまたないが、
 私たちについてもそれは相当程度妥当し、
 あたかもその相互関係のマスコットであるかのように、彼我の遊び心が発現してくるのかもしれない
 ――それは、「中動態的プロセス」にも準(なぞら)えられようか。


 ところで、私は、漱石晩年の随筆集『硝子戸の中』を、長年、愛好してきたが、
 比較的初期の作では、
 中篇、『文鳥』が、蜘蛛の糸に貫かれた雨滴を想わせる、透徹した光彩を放つ。
 

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