母は、私の幼児期以降、私たちへ対してのみならず、どういう場でも、
歌を披露するというようなことは決してなく、我が身の慰みのために口ずさみもしなかったと思う。
家庭内外の入り組んだ人間関係と家事とに追い立てられる、母の生活ぶりを一言に表すとすれば、
「身を粉にする」、いや「針のむしろ」が相応だったろうか?
私たち兄妹はそれを日々眼前にしつつ、手出し、手助けできないことに、
痛切な無力感を覚えさせられたのは事実だ。
それどころか、妹はまだしも、私は母を、落胆させるばかりであったと思う――
私は、叔父の言うごとく、悪坊だったし、学生時代を通じて、勉学にいそしむといった姿勢は、ついぞなかった。
恐らく亡くなるまで、私たち兄妹は、母の心配・心痛の種だったのではなかろうか?
とこのように記したからといって、
私は、いわゆる親孝行できなかったことを悔いているのではない。
そういう感情が皆無とは言わないが、多分にそれはセンチメンタル――表層的だと認知される。
むしろ、母の一生にせよ、私の今日までの生活にせよ、
それぞれの存在の、どこか根深い次元で完結していると思える――
このことは、宗教や何らかの思想に依拠しての言でなく、
この小文を記しつつ つい今、その見地に落着したといった按配なのだ。
家内が、結果的には、元々歌・音楽好きの母を、その場の思い付き、思い遣りから歌で見送ることになった、
と一応はそう見えるけれども、
それも、母の人生の一貫性の顕れなのだろうと思える。
あるとき、ある人が私へ、こう語ってくれたことがある、
「全ての存在の根底には、無条件の喜びが流れています」 と。
この言の記憶のかけらが、
私が、母および私自身の生を、ある次元で完結している、とふと思いついた源であるかもしれない。
その人は、こうも言った、
「全ての存在は、自然の喜びの表現です」。
但し、この“自然”とは、私たちの目に映じる自然現象のことではない、
それらすべて、及び、全ての個物の現存の原因を成す、形のない、唯一の実体としての“自然”なのだ
――スピノザの言う、神=自然の後者にも当たるだろう。
「苦しみ、欲、みえ、学び等々の心は、実のところ、その喜びに包み込まれているのです」。
私の家内が、病床の母を、歌で包んであげたことを伝えると、その人は、
「音楽は、音を楽しむと書くでしょう、音楽は喜びの表現なのです」。
それへ対し私は、
「遺族代表の挨拶を、私は、たまたま、『歌うように晴れやかに(母を)見送りたいと思います』と結びましたが、
違和感を覚えた方もおられたかもしれませんが、それはそれで良かったんですね」
「そうなんです」 力強い応答が返ってきた。
その人の言明される「喜び」というものを、私は、信じているわけではない。
ただ、事実と認識している。
何故そうなのか、と問われるならば、
その人に直かに対するなり、その人の言に接するなりすると、私は、自(おの)ずからそうなると答えるしかない。
そして、私にとって、“自ずから”という内面の動きほど、得心の行く羅針盤はない。
(終わり)
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